失敗礼賛

 

失敗礼賛

失敗礼賛

 

P66

 人が「見る」って、どういうことなんだろう?私はずっと考えてきました。

 「見たいという欲望はとても強くて、もっとも制御しがたいものかもしれません。そして「見る」ということと「所有する」ということは、極めて近い感覚だと思います。

 「見た」ものは自分の世界を形づくるパーツになる。つまり、自分の所有物になるわけです。そういう感覚は、おそらく無意識のうちに誰の中にもあると思います。

 たとえば街で会った人が、私に声をかけるとき、ラジオを聞いている人とテレビを見ている人とでは明らかに反応が違います。前者のほうは私に近づいてきて 「いつもラジオ、聞いていますよ」とか、「この間のあの話、面白かったです」というふうにあくまでも小島慶子という個人として接してくれます。

 かたや、テレビで私を見ていた人の場合は、その場で立ち止まり、私との距離を縮めることなく「あ!」という顔をします。半分驚いたような、半分嬉しそうなその表情はまるで「珍獣、発見!」とでもいった感じのリアクションです。

 それはおそらく、私をテレビで見て、この世のどこかにいるであろうことは知ってはいたものの、生で見たことがなかったゆえの「生、捕獲!」という喜び。

 これまでメディアを通してみていたものと、その元となる生身の人間が一致したとき、沸き上がってくる感情は、目の前にいるこの人と話がしたいというよりも、自分がこれまで映像として自分の中に所有していた「小島慶子」という箱の中にやっと実物が伴ったという感覚なのでしょう。

 動物園でリアルなホワイトタイガーを目の前にしたとき、テレビで見て、その存在を知ってはいたけれど「あ、ホントにいるんだ」とか「実物は大きいなあ」という感覚に近いものがあると思います。だから、相手に話しかけるよりも、周囲に知らせたいと思うのでしょう。それが「小島さん、聞いてますよ」と「あ、小島慶子だ!」の違いです。

 人は、とにかく自分の目で見て、実物を確かめたい。確かめたところで、家に連れて帰れるわけではないけれど、生きている限り自分の目で見て、確かに存在するという確認をひとつひとつとって歩きたいという欲望があるんです。

P76

 「見たいという欲望が一番強い

 

 目というものは、本当に欲深い器官です。

 なるべくたくさんのものを見たい、できるだけ詳しく見たい、より本物を見たいという欲望は、自分が偽物をつかまされてしまうのではないかという不安の裏返しだと思います。

 「見る」ことが”所有する”ことであるならば、逆に「見せる」ことは”支配する”ことかもしれません。強い欲望を持った目が自分に向けられるということは、こちらが、相手の欲望を手にすることでもあります。相手がほしがるものを与えるということは、見られる側が見る相手を支配するのと同じことなんですね。

 欲望をもっと搔き立てるような見せ方をすることは、相手に対する支配です。見るもの、見られるものを巡っての欲望のやり取りって、本当に興味深い。

P102

 工夫すれば人と人は完全にわかり合えて、自分は相手に完全に理解されるという思い込みが大きな間違いなんです。

P116

 人との交わりに必要なのは観察力です。話術ではありません。

 でも、限られた時間の中で効率よく話す技術が必要なときもあると思います。

 たとえば就活の面接もそうです。

 面接を乗り切る技術はある程度必要ですよね。でも、その技術に長けていることと、自分の人間的な価値は別モノだとわかっておかなくてはなりません。

 面接を乗り切る技術が足りなかったからといって、自分の存在や魂には価値がないと思う必要はない。技術的な失敗と自分の存在自体をイコールで結んでしまうのは、とても危険なことです。

P145

 同窓会に億万長者になった人が出席していたとします。でも彼は中学のときは普通の少年でした。「お、元気?おまえ、けっこう活躍してんじゃん」とあなたは話しかけます。それは本当に彼を懐かしがって再び親交を温めようとしているのか、億万長者とお近づきになろうとしているのか、はたまた「今は億万長者になっているおまえだけど、中学のときの関係では俺のほうが上だったよな」と確認するためなのか。

 いろんな動機があるはずです。その動機をわかったうえで、コミュニケーションを取ることが大人のたしなみだと思います。そう、自分の本音を自覚して、節度ある言動を。

 大人になると、いろんなコミュニケーションのパターンを身につけているので、その型を駆使すれば、たとえ根っこの部分に嫉妬心があったとしても、あたかも心からの友情の発露であるかのようにふるまうことができます。

 本当に嫉妬心があるという自覚があれば、それを隠すのか、少しだけ出すのか、自分でうまくコントロールできるけれど、自覚がない場合、紳士然として近づきながら、浅ましい言葉をぶつけてしまいかねません。自分の動機が見えていないから、欲望を野放しにしてしまい、それに振り回されてしまうのです。

 そうならないためにも、まずは自分が相手にどんな感情を持っているのか、いい感情も悪い感情も含めてきちんと整理しましょう。そのうえで、どれを優先して行動するのかを決めることが必要だと思います。

 たとえ品のない本音に気づいても、自分を責めないでください。肝心なのは、それを行動に移すのか自制するのかなのですから。

 浅ましい気持ちになること自体は恥ずべきことではないけれど、浅ましさを露呈するのはみっともないことです。